おきなわ工芸の杜おきなわ工芸の杜

概要・歴史

壺屋焼は、素朴さの中に力強さを感じさせる器であり、長い歴史とともに育まれた技法によって生み出されています。壺屋焼は、上焼と荒焼に大別され、上焼は釉薬をかけ約1200度の高温で焼かれたものです。 碗や皿などの日用品が多く、壺屋焼の主流を占めています。荒焼は、南蛮焼ともいわれ釉薬をかけず1120度前後で焼きあげたもので、大型の容器を中心に作られています。
14~16世紀頃、海外貿易が盛んであった琉球王国は、東アジアの焼物の集積地のひとつでした。しかし1609年に薩摩が琉球を侵略し、海外貿易が下火なると、尚貞王は薩摩から朝鮮人の陶工を招き、製陶技術の習得に力を入れ始めました。この時に荒焼に繋がる技術がもたらされ、その後も東アジアの様々な地域から製陶技術を学ぶ中で、上焼が作られました。そして1682年に王府によって美里村知花窯、首里宝口窯、那覇湧田窯が牧志村の南に統合され、現在の壺屋焼が誕生しました。

基本情報

原材料島尻粘土、喜瀬粘土、古我知粘土、石川粘土、前兼久粘土、安富祖粘土、ジャーガル、為又粘土
主な製造地那覇市、恩納村、読谷村
主な製品食器・抱瓶・獅子・壺・ジーシ甕
組合名・設立年月日壺屋陶器事業協同組合・昭和50年9月29日
国指定伝統的工芸品指定年月日昭和51年6月2日
県指定伝統工芸製品指定年月日昭和49年6月11日
出典工芸産業振興施策の概要
壺屋陶器事業協同組合ウェブサイト

主な製造地

那覇市、恩納村、読谷村

壺屋焼は沖縄県内で生産されています。戦争において大きな痛手を受けた沖縄ですが、いち早く壺屋町で復興の産声をあげた陶器業界では、昭和50年度に「壺屋陶器事業協同組合」が設立、昭和51年度には組合会館の建設がされました。しかし町の復興とともに住宅が増え、薪窯による煙害が問題となります。那覇市では公害対策のため薪窯の使用が禁止され、壺屋に残る陶工は薪窯からガス・灯油窯に転換し、薪窯にこだわる陶工は読谷村に移窯していきました。読谷村は元々伝統工芸に根付いた地であり、現在では壺屋と並ぶ一大中心地を形成するまでにいたっています。壺屋焼はシーサーや日用雑器などの製品を生産しています。

おきなわ工芸の杜について

当施設の基本情報や伝統工芸品の歴史、おきなわ工芸の杜』が果たしたい役割について紹介しています。

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